深呼吸（7）-周平×裕太-

「諒のバカー！　滝沢のバカー！」
裕太はバルコニーの手すりをぎゅっと握ると、昼間、諒や滝沢へ反論できなかった言葉の代わりに、夜景の中でもひときわ高く輝くサンシャインビルへ向かって、罵声を浴びせた。
「イーだ！　アッカンベーだ！　違うもん！　嘘つき！　それから、えーっと……えーっと……」
裕太の乏しい語彙は、心の鬱憤を晴らす前に、たやすく尽きてしまった。
「うう……とにかく……バカ、バカ、バカ、バカ、バカ、バカーーーー！」
裕太は息が上がるまで声を張り上げた。
紺色の空を黒く切り取っている平べったいのっぽビルは、泰然として小揺るぎもしなかった。
裕太は、はーっと息をつくと、脱力して手すりにもたれかかった。

深呼吸（6）-周平×裕太-

「俊才」「端麗」「選良」
周平に対する周囲の評価をまとめれば、概ねそんな二文字に集約さるだろう。
あるいは、周平のプライベートを知る者なら、そこに「世話好きの」「弟思いの」という形容が加わるかもしれない。
だが、あくまでその視線は好意的で、批判や皮肉が込められたものではなかった。
諒が聞いたら、「皆アイツに騙されてるんだ」と怒り出しそうな意見だが、なにしろ周平の外面の良さと、面の皮の厚さは、もう十年以上もの間上塗りを重ねてきたエベレスト級の代物だ。
だから、それを突破できないからと、市井の人々を責めるのは、あまりにも酷というものだった。

深呼吸（5）-周平×裕太-

「どうせ親の七光りだろう」
それが、今度、天国屋札幌店から、本社へ移動してくる新しい主任に対する、営業企画部内全員のほぼ一致した意見だった。
なにしろ、新しい主任……つまり藍川周平は、その姓からもわかるように、天国屋創業者一族の一員であり、現オーナーの孫であり、常務取締役の息子であるという、まさに血統書付きのサラブレッドだったから、そう思われても仕方がなかった。
当然、周平自身も、自分に「藍川」という名がある以上、そういう色眼鏡で見られることは承知のうえだったから、今更そんなことに目くじらを立てるつもりもなかった。
なにしろ、そういう連中を実力で黙らせる自信が、周平にはあった。

深呼吸（4）-周平×裕太-

三十になるまでは外回りで苦労させる。
それが、藍川家の、いや天国屋グループ全体の人材育成方針だった。
それは「現場を知らないものに、企業の経営は出来ない」という、現天国屋オーナーの個人的信念によって定められた暗黙のルールだったが、その試練を与えられるということは、すなわち幹部候補としての指名を受けるということであり、つまり、人生の勝者としての第一歩を踏み出すのと同意義だったから、入社一年目からの厳しい残業にも、過酷な転勤にも、みな誇りを持って耐えた。
そしてもちろん、一族の仲でも白眉として期待されていた藍川周平もまた、その例に漏れず、三十を過ぎるまでは全国の、あるいは全世界の各支店、支社を巡って現場経験をつむのが当然と誰もが考えていた…………そう、ただし、周平本人以外は。

深呼吸（3）-周平×裕太-

「裕太、お前、今朝、滝沢と何はなしてたの」
いつも通り、裕太と二人で机を並べて昼食を取っていた諒は、なるべく詰問調にならないように注意しながら、そう質問した。
裕太の様子が何だかおかしいのは、絶対に滝沢のせいにちがいないと、諒は確信していた。
「何って、別に……ただ、女の子の……」
そこまで言いかけて、裕太はハッと口を押さえた。
今朝裕太が滝沢と話していたことといったら、女の子は机と一緒だとか、つきあいに飽き飽きしてるとか、そういう、諒が聞いたら卒倒しそうな内容ばかりだった。
「女の子の？」
諒の、言い逃れは許さなぞと言わんばかりの強い視線に、裕太は思わず目を伏せた。
俯いて黙りこんでしまった裕太を見ると、諒は手にした箸をパシリと音を立てて机の上に置いた。