深呼吸（4）-周平×裕太-

三十になるまでは外回りで苦労させる。
それが、藍川家の、いや天国屋グループ全体の人材育成方針だった。
それは「現場を知らないものに、企業の経営は出来ない」という、現天国屋オーナーの個人的信念によって定められた暗黙のルールだったが、その試練を与えられるということは、すなわち幹部候補としての指名を受けるということであり、つまり、人生の勝者としての第一歩を踏み出すのと同意義だったから、入社一年目からの厳しい残業にも、過酷な転勤にも、みな誇りを持って耐えた。
そしてもちろん、一族の仲でも白眉として期待されていた藍川周平もまた、その例に漏れず、三十を過ぎるまでは全国の、あるいは全世界の各支店、支社を巡って現場経験をつむのが当然と誰もが考えていた…………そう、ただし、周平本人以外は。

周平が大学を卒業したとき、父親は「ハーバードに行ってMBA（経営学修士号）を取ってこい」と命令した。
裕太を置いて海外留学なと出来るはずのない周平は、「資格は現場で役に立たない」と主張し、それを拒否した。
普通こんなことを言えば、「さては自分に自身がないのだろう」と侮られるところだが、「現場主義」を貫く祖父を味方につけ、傲然と「自分に資格など必要ない」と言い切った周平に、みな圧倒され、納得させられた。
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周平が天国屋に入社したとき、父親は「名古屋の売り上げを倍にするまで帰ってくるな」と命令した。
「現場に出て苦労したい」という息子の希望を、父親はそういう形で叶えてやったのだ。
周平も、自ら「現場主義」を標榜した以上、これを断ることは出来なかった。
名古屋から東京は二時間もかからない、海外に送られるよりは遥かにましだと、周平は自分に言い聞かせた。
しかし、そんな周平も「売り上げ倍増」という無茶な命令には参った。
入社一年目の、右も左も分らない新人に出来ることなど、たかが知れていた。
もちろん、父親だって、そなことは百も承知だった。
「売り上げ倍増」などというのは、鼻っ柱の強い息子に、社会人としての苦労を理解させるための、単なるこけおどしにすぎなかった。
父親は五年ほど名古屋で修行させ、音を上げたところで、また別の店舗へ送り込んでやるつもりだった。
ところが、運命の女神はそんな父親の予測を裏切り、周平に味方した。
バブルの後遺症で、日本列島が長期不況に喘ぐ中、自動車を中心とする名古屋の輸出産業が、その円安の為に沸き返ったのだ。
当然、小売業界もその好景気の恩恵を受けた。
天国屋百貨店は、見栄っ張りの高級志向、派手好き、ブランド好きの県民性に合わせた商品展開で、名古屋人の心を掴んだ。
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そうして、たった二年で父親の出した無理難題をクリアした周平は、約束通り自分を本店に戻すように要求した。
条件を口に出してしまった以上、父親もその要求を呑まざるをえなかった。
あるいは、兄の帰京を待ち望んで、今日帰ってくるの、明日帰ってくるのと、毎日父親の袖を引いて尋ねる裕太の要求に、根負けしたのかもしれなかった。
いずれにしても周平は、自分になんら恥じることなく、胸を張って東京へ凱旋することに成功した。
その全ての努力は、裕太と共に暮らすと言う、たった一つの目的の為に成されたものだったが、結果を出して見せた以上、誰にも文句を言われる筋合いはなかった。
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しかし、そんな裕太と周平の蜜月も長くは続かなかった。
わずか一年弱で、今度は札幌へ転勤するようにと言う辞令が周平に下った。
札幌店は、全国でも最も厳しい経営状況にある、不採算店舗だった。
父親は、再び息子に厳しい試練を与えたのだ。
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周平の三度目の移動が決まったとき、裕太はもう中学生になっていた。
だから小学生のときのように、家を出る兄の足に縋って、行かないでと泣くような真似はしなかった。
しかし、それでもやはり、見送る笑顔はひどく寂しげだった。
周平は、赤い目を隠して、なんとか微笑もうとする裕太の頭を抱いて、大丈夫、すぐに帰ってくると約束した。
そのときの小さい頭の丸みと、柔らかい髪の匂いは、いつまでも、周平の中に残った。