深呼吸（5）-周平×裕太-

「どうせ親の七光りだろう」
それが、今度、天国屋札幌店から、本社へ移動してくる新しい主任に対する、営業企画部内全員のほぼ一致した意見だった。
なにしろ、新しい主任……つまり藍川周平は、その姓からもわかるように、天国屋創業者一族の一員であり、現オーナーの孫であり、常務取締役の息子であるという、まさに血統書付きのサラブレッドだったから、そう思われても仕方がなかった。
当然、周平自身も、自分に「藍川」という名がある以上、そういう色眼鏡で見られることは承知のうえだったから、今更そんなことに目くじらを立てるつもりもなかった。
なにしろ、そういう連中を実力で黙らせる自信が、周平にはあった。

東京都豊島区池袋、天国屋本社ビル16階。
それが、周平の新しい勤務先だった。
周平が『本社営業企画部主任を命ずる』という辞令を持ってフロアに現れたとき、部内の女性社員は色めき立ち、男性社員は舌打ちした。
自分の容姿や、経歴や、血筋に対して、周囲がそういった反応を示すことに慣れきっていた周平は、動じることなく、それら全てのざわめきに、完璧な営業スマイルで答えた。
「始めまして。本日付けで、営業企画部に配属になりました藍川周平です。名古屋で二年、関東で一年、札幌で二年の支店巡りを終えて、この度本社勤務となりました。主任という肩書きを頂きましたが、初めのうちは皆さんに教わることばかりだと思います。色々とご迷惑をおかけすることになると思いますので、ご指導よろしくお願いします」
簡潔で、しかも先輩への心配りを忘れない、完璧な着任挨拶に、まず男性社員たちが「すかした能無しのボンボン」という、周平への第一印象を改めた。
そして最後の仕上げに優雅に腰を折った周平の自信に満ちた笑顔に、女性社員たちの「天に選ばれたエリート」という第一印象は、確信へと変わった。
周平はそういった同僚たちの感情の動きを、手に取るように感じながら、頭の中で裕太に食べさせる今夜のメニューは何にしようかと、真剣に検討していた。