ワガママ（4）-周平×裕太-

「おー藍川、お前、体は大丈夫なのか」
始業の合図と共に教室に入ってきた先生は、黒板の前に立つと、白髪交じりの胡麻塩頭をかき混ぜながらそういった。
「え？！　あ、はい、もう大丈夫です」
突然の名指しに驚いて、オレは思わず席を立ち上がった。
「おう、そうか？　ならよかった」
「はい、あの……すみませんでした、昨日無断で帰ったりして」
諒が言い訳しておいてくれたことに感謝しつつ、オレは先生に頭を下げた。
「ま、しょうがないわ。廣瀬から理由は聞いたし、保護者からも電話貰ったしな、あんまり無理するなよ」
「え……保護者って――――ま、まさか、兄ちゃん？！」
思わず声を裏返したオレに、クラスがどっと沸いた。
兄ちゃんが学校に弁当を届けてくれた一件以来、オレのブラコンと、兄ちゃんの過保護は、ちょっとしたからかいのネタになってるんだ。
「おっ、出た！　藍川の兄貴！」
「なに何、先生、藍川の兄ちゃん、何て言ってきたの？」

「おい、こら、お前ら静かにしろ」
囃し立てる声に、先生は出席簿で教壇をバシバシと叩いた。
「ここは幼稚園じゃないんだ、騒ぎたいやつは、外で騒げ」
一喝されて、一応みんなは口を閉じたけど、その目はまだ興味津々といった様子で光っていた。
「あ、あの……先生、それで兄ちゃん――――アニ、は何て」
聞けば又笑われるって分ってるのに、オレはやっぱりそれを聞かずにいられなかった。
案の定、オレが「兄ちゃん」と言った瞬間に、誰かが耐えかねたようにぷっと吹き出したけど、先生の睨みが利いたのか、今度はそれ以上笑いは広がらなかった。
「なぁに、今朝具合が悪いのに家を出たから、気をつけて見てやってくれって、それだけだよ」
先生はさらりと答えると、もうすっかり話は済んだという顔で、出席を取り始めた。
オレは自分の頬が少しだけ赤くなっているだろう事を自覚しながら、俯き加減で席に座った。
諒が何か聞きたそうな顔でオレを振り返ってたけど、さすがに授業中に私語することはためらわれたのだろう、結局黙ったまま前に向き直った。
*
そのときオレが顔を赤くした理由は、ブラコンをみんなにからかわれたからじゃない。
どんなに察しの良い諒にだって、さすがにこのときのオレの心境は分らなかったと思う。
だってその時オレは、今までちょっとだけ煩いなんて感じていたはずの兄ちゃんの過保護が、もう凄く、凄く、凄く…………おかしくって、楽しくって、一生懸命笑いをかみ殺していたんだから。
*
きっと兄ちゃんは、俺が出た後、会社に行く前に学校に連絡したんだ。
オレのことが心配だったから。
大丈夫だって、あんなに言ったのに、それでもまだ心配で、先生に電話したんだ。
兄ちゃんが真剣な顔で先生に頼み込んでいる姿が目に浮かぶようだった。
兄ちゃんってば、兄ちゃんってば……もう本当にしょうがない！
オレは教科書に顔を押し付けて肩を震わせた。
授業中なんだから、何とか我慢しようと思うんだけど、それでもどうしても止められなかった。
ぷくぷく、お腹の中で笑いの虫が跳ねてるみたいに。
一人の人のことを思って、こんなに楽しい――嬉しい気持ちになるなんて。
これってなんだろう。
家に帰ったら、兄ちゃんに聞いてみようかな。
オレは必死で笑いをこらえながら、滲んだ涙をぬぐった。