携帯と夏休み(2）-周平×裕太-

ホテルの窓から見下ろす名古屋駅周辺の夜景は、暗く沈んだ空と、それと対比するように輝く地上の星といった、さして東京と違いのない……あえて言うなら、それのミニチュア判といった印象の……ごく平凡な都市の顔だった。
周平は女がバスルームに消えたのを確認すると、上着の胸ポケットから携帯電話を取り出した。
裕太はもう寝ている時間だったが、今日も何事もなかったという、ただそれだけを確認したいために番号を押した。
呼び出し音を聞きながら、ベッドのふちに腰掛ける。
ネクタイを緩めてほっと息を付いた自分は、酷く疲れて見えるに違いないと、周平は目を閉じ、自嘲した。
『はい、藍川です』
電話に出たのは、少し緊張したような硬い声だった。
「……裕太？」
思わず確認すると、電話口からクスクスとイタズラっぽい笑いが零れた。
その声に周平の頬が自然と緩む。
自分の幸福のありかを、周平はいつでもそうやって小さな弟から教えられた。

リビングの電話が鳴った。
裕太は抱えていたクッションを放り投げると、飛ぶような勢いで走り寄った。
「兄ちゃんだ！」
受話器の横の小さな液晶画面を見て目を輝かせた裕太に、母親ほっと安心したような表情を浮かべた。
「いいわよ、出て」
「うん！」
裕太は大きく頷くと、すうっと息を吸い込んで受話器を持ち上げた。
「はい、藍川です」
大人の真似をして、精一杯気取った声を作った裕太に、相手は一瞬面食らったように沈黙した。
『……裕太？』
「そうだよ、兄ちゃん、びっくりした？」
くすくすと笑う裕太に合わせて、周平の声も柔らかく微笑んだ。
『なんだ、どうした裕太。まだ寝てなかったのか？』
「寝ないよー、兄ちゃんの電話待ってたんだもん」
『そうか……ごめんな裕太、遅くなって』
「いいよ、仕事大変なんでしょ？　無理しちゃダメだよ？」
裕太のませた口調がおかしかったのだろう、周平は声を上げて笑った。
『大丈夫だよ。裕太が俺の電話を待ってると思うと、頑張れる』
「そうなの？　うん、待ってるよ、ずーっと、待ってるよ」
『いい子だな……裕太は』
「うん！」
満面の笑みで頷いた裕太から、母親が受話器を取り上げた。
「ちょっと周平、褒めないで、ちっともイイ子じゃないんだから」
「あーっ！！　ダメ！　まだ話中なんだから！」
裕太は母親の背中に飛びついた。
まだわずかに背丈の及ばない裕太の手は、受話器をかすめてエプロンの端を掴んだ。
「返してよー！」
「裕太ったら、周平から電話が来るまで寝ないって、まだお風呂も入ってないのよ」
『母さん……』
周平はがっくりと、脱力したように息を吐いた。
『今日は俺が悪かったんです。連絡が遅くなったせいですから、裕太を叱らないで下さい』
「もー、みんなそうやって裕太を甘やかすんだから。ダメよ、ちゃんと周平からも言ってちょうだい」
『はいはい、分かりましたから、早く裕太に代わってください』
ようやく受話器を取り返した裕太は、それを抱えるようにしてソファの後ろに隠た。
「さっきからね、お母さん怒ってばっかりなんだよ」
『裕太が心配なんだよ』
「兄ちゃんも怒られたりした？」
『怒られたさ、いっぱいね』
「ホントに？！」
『ああ、本当に』
ヒソヒソと漏れ聞こえてくる話し声をなんとか聞き取ろうと耳を澄ます妻に、夫は呆れ顔だ。
「おーい、もう一杯もらえるかな？」
差し出された茶碗を、妻は気もそぞろな様子で後ろ手に受け取った。