ワガママ（8）-周平×裕太-

「……にい、ちゃん…………」
そう呟いた自分の声で、オレはゆっくりと目を覚ました。
布団の上に起き上がって、ぼんやりと辺りを見渡すと、窓の外はすっかりオレンジ色に染まっていた。
「兄ちゃん……？」
オレはもう一度呼んだ。
薄暗い室内はシンと静まり返って、人が居る気配はなかった。
オレは、おかしいな、と首をひねった。
ここは、ユニットバスが付いてるのが奇跡みたいな、ボロアパートのワンルームだから、誰か居ればそれは全部筒抜けなんだ。
確かに、兄ちゃんの手がオレを撫でていたと思ったんだけど……あれは夢だったのかな。
優しい声で名前を呼ばれたような気がしたんだけど……あれも夢だったのかな。
そう言えば、何だかずいぶん長い間眠っていたような気がする、不思議な夢も沢山見たような気がする。
えーっと、なんだっけ…………。
まだ夢から覚めきらないような、ボーっとした頭のまま、布団の上に座っていると、突然目の前を大きな黒い影がよぎった。
「うわぁっ！！」
オレは思わず悲鳴を上げて身を仰け反らせた。
ばさっという羽音と共に、カラスが一匹、窓の外を飛んで行った。
「っ――――驚かすなよ、もう、オレそういうの嫌いなんだから」
あっというまに姿を消した闖入者に文句を言いながら、オレはのそのそと布団の上に立ち上がった。

「くぅ――――っ、すっごいオレ、寝すぎたかも……」
頭の上で手を組んで、ぐるりと上半身を回すと、肩がぱきぱき鳴った。
フローリングの床の上に……兄ちゃんは、これは「フローリング」じゃなくて「板張り」って言うんだよって笑うんだけど……、とにかく、その床の上に直接布団を敷いてるから、あんまり長い間寝てると、体が痛くなるんだ。
「なんで部屋で寝てるんだろ……いつ家に帰ってきたっけ…………」
オレは眠りすぎた後遺症の倦怠感を全身で感じながら、ぺたぺたと裸足のまま流し台の前に行った。
とりあえず水を一杯飲もうと蛇口をひねって、自分がきちんとパジャマに着替えていることに気が付いた。
「あれ、なんだ、やっぱ本格的に寝てたんじゃん……」
おっかしいなあ、朝ちゃんと家を出たはずなんだけど、ひょっとしてあれも夢だったのかな、とオレは自分を疑った。
兄ちゃんが帰ってくる前、バイト三昧だった時にも、何度かこういうことがあったんだ。
自分では、学校に行こうと起きたつもりだったんだけど、気が付いたら部屋で爆睡してて、心配して様子を見に来た諒に呆れられたってことが。
とはいっても、あの頃オレは積み重なった疲労と睡眠不足で、起きても夢、寝てても夢みたいな、ぼんやりフワフワした状態で日常生活を送ってたから、それもあんまり良くは覚えてないんだけど。
でもとにかく、兄ちゃんが帰ってきてバイトも全部止めさせられてからは、もうそんなこと一度もなかったのに。
「オレまたやっちゃったのかな……」
諒に電話して聞いてみようか、とまぶたをこすりつつ振り返ったオレは、ぎくりと硬直した。
六畳の狭い室内が、一面真っ赤に染まっていた。
「う――――って、な、なんだよ、ちょっと西日が強いだけじゃんっ……！」
自分を励ますために、オレはわざと大きい声を出したけど、静まり返った室内の寂しさを余計に強調させる結果にしかならなかった。
オレの全身がぞぞっと総毛だった。
こんなの、カーテン閉めて、電気点ければそれで全部終わるって分ってるのに、どうしても動けなかった。
小さな子供が暗闇を怖がるみたいに、理由もなく、ただ、怖かった。
夕闇に沈んで行く閉じた空間に、一人で取り残されたような気がして、呼吸が苦しくなった。
たまらない閉塞感から逃れようと、震える指でドアノブを掴んだ。
手首にぐっと力を込めた瞬間、向こう側から勝手に扉が開いた。
「裕太……？」
買い物袋を抱えた兄ちゃんが、驚いた顔でそこに立っていた。
*
「――――兄ちゃんっ！」
オレは素足のまま玄関に駆け下りて、兄ちゃんに飛びついた。
どっと手加減なく力いっぱい抱きついたけど、兄ちゃんは揺るぎもせずに受け止めてくれた。
「どうした、裕太――お前寝てなくて……」
「兄ちゃん！　だ、大丈夫？！　何ともない？！」
息せき切ってそう尋ねたオレを、兄ちゃんは愉快そうな顔で見下ろした。
「何ともって、そんなのあるわけないだろ、ちょっと買い物に出ただけなんだから」
くっくと笑って、頭を撫でた兄ちゃんの手の温もりに、オレはようやくそこで目が覚めたような気がした。
「あ――――、オレ……夢、見てた……？」
「へぇ？　どんな夢を見てたんだ、悪い夢だったのか」
優しくそう聞かれて、オレは返事に困った。
だって、こうやって兄ちゃんの腕の中に抱かれてると、さっきまで息も出来ないぐらい怖かったはずの何かが、すうっと、嘘みたいに消えて、本当に何でもなかったように思えてくるから。
「えーっと、えーっと……オレ一人で、兄ちゃんは消えちゃって……そんで、暗くて、狭くて、怖かった……」
オレは何とか状況を説明しようと言葉を探ったけど、それは、いかにも馬鹿な子供が考えそうな、支離滅裂な言い訳にしかならなかった。
こんなの、くだらない夢だよねって笑い飛ばそうと見上げた兄ちゃんは、予想外に真面目な顔でオレの話を聞いていた。
「…………そうか……ゴメンな、裕太。一人にして」
「えぇ？！　ち、違うよ、兄ちゃんは悪くないよ、オレが馬鹿なだけ！」
「いや、俺が悪い。裕太の目が覚めるまで、側にいればよかったんだ」
「あの――――」
「置いて行かれたと思って怖かったんだろ……せめて、出かける前に、明かりだけでも点けて行ってやればよかったのに、気が付かなくて悪かった」
そんな馬鹿な、と思ったけど、兄ちゃんはどこまでも本気の表情だった。
「裕太、なるべく早く引っ越そう」
「え……」
「ここは、俺達には狭すぎる」
「う、うん……」
唐突に出てきた、引越しの話にオレは目をぱちくりさせた。
確かに兄ちゃんは、このアパートに住み始めた最初の夜からずっと、「ちゃんとした所に引っ越そう」とは言ってた。
でもどうして今その話を始めたのか、理由が分らなかった。
「もっと広くて、ずっと……明るい場所にしような」
そう言って微笑んだ兄ちゃんの瞳には単なる思い付でない、確信に満ちた光があった。
なんで、と理由を聞きたかったけど、兄ちゃんの真剣さが怖いぐらいで、それは聞いちゃいけないような気がした。