蛇の林檎（3）-周平×裕太-[裕太視点]

俺たちの新しい家になった目白のマンションは、池袋にある兄ちゃんの職場、天国屋本社には近いけど、俺の通う楽才学園へ行くにはちょっと遠い。
ＪＲと地下鉄を三本も乗り継いでいかなきゃならないんだ。
高田馬場からバスも出ててるらしいんだけど、俺バスって苦手なんだよね。
なんか閉じ込められちゃった感じがして、気持ちが悪くなっちゃうんだ。
車は平気なんだけど、バスは駄目って、そう言えばなんか不思議だよな。
引越し荷物の片付けもそこそこに、買い物に出る兄ちゃんにくっついてきた俺は、助手席に座ってぼんやりとそんな事を考えていた。
「裕太？　どうした」
車道の向こう側を通り過ぎていくビルや人の群れを眺めながら、自分の考えに没頭していた俺は、どうやら兄ちゃんの問いかけに気が付かなかったらしい。
運転席から心配そうに俺を見ている。
「え？」
「気分でも悪くなったのか？」
「あ、違うよ。そうじゃなくって、俺車は平気なのに、なんでバスは駄目なんだろうって思ってさ。変じゃない？」

兄ちゃんは「またそんなつまらない事を」って感じでため息をつくと、ハンドルから片手を離し、俺の頭をぽんぽんと軽く叩いた。
「別に変じゃないさ。誰だって苦手なものぐらいある、それで普通だろ」
俺は兄ちゃんのその返事に「そういうことじゃないんだけどなあ」と内心で首をかしげた。
別にその考えを口に出したわけじゃないけど、察しのいい兄ちゃんは、俺が納得していないのにすぐに気が付いたんだろう、しょうがないなというふうに言葉を続けた。
「――お前は昔バスで……ちょっと嫌な思いをしたことがあるから、それで苦手なんだよ。でも気にする必要なんかない、バスになんか乗らなくったって、別に困らないだろ？」
「えっ、そうだったの？」
衝撃の事実！　って程でもないが、初めて聞く話に俺は目をぱちくりさせた。
「……全然覚えてないや」
まあ、俺と兄ちゃんは年が離れてるから、こういう「思い出のギャップ」みたいなのはよくあるんだけど。
「お前はまだ小さかったからな。でも、それでいいんだよ、嫌な思い出なんて無理に覚えてることなんかない。忘れてしまえばいいんだ……」
そう言って兄ちゃんは何だか不思議な目をしてじっと俺を見つめていたけど、ふいにけりを付けるみたいにちょっと大きな声を出して、ハンドルを握りなおした。
「さあ、つまらない話はこれでお終りだ。引っ越したばかりで、色々と足りないものが多いんだ。今日は忙しいぞ」
「えっと、まずカーテンね。それから布団がベッドになっちゃったから、新しいシーツとかももいる、それからそれから……」
隣であれもこれもと指折り数えだした俺に、兄ちゃんは呆れたような声を出した。
「おいおい、一日で全部揃えられるか？」
兄ちゃんは困ったような顔をしてるけど、でも口元が笑ってる。
俺は調子に乗って声を張り上げた。
「天国屋なら大丈夫！　でしょ？」
現天国屋オーナーであるじいちゃんの口癖を物真似して見せた俺に、兄ちゃんは「あはは」と盛大に笑い声を上げた。
「そうだな。ああ、まかせておけよ天国屋池袋本店の「自慢の品揃え」ってやつを見せてやるよ」
ちょっと芝居がかって胸をはって見せた兄ちゃんと一緒に、俺も声を揃えて笑った。
「あ、そうだ裕太。学校へ行くのは来週からで良いけど、今日中に定期は買っておこうか？」
「うん、そうだね。そうしよう」
何だか凄く楽しくて、もうバスの話なんか俺の頭の中にはなかった。